目次
はじめに
安全文化という言葉が注目されるようになって久しいが、その本質は「見えない組織の力学」にある。
技術的対策や制度整備だけでは不十分であり、組織を構成する個人やチームの価値観、信念、態度、行動様式といった文化的側面が、事故予防やリスクマネジメントの成否を分ける重要な要因となる。 現代の組織は、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性(VUCA)が増大する環境下に置かれている。このような状況下では、固定的なルールや手順を遵守するだけでは安全を担保しきれない。
そこで近年、安全文化をより深く理解し、実践するための枠組みとして、「動的平衡(dynamic equilibrium)」という概念が注目されている。 動的平衡とは、一見して矛盾する「変化しながら安定する」状態を意味し、生物学や物理学、社会システムなど多様な領域で活用されてきた概念である。
本稿では、安全文化と動的平衡という二つの視点を接合させることにより、組織がどのようにして安全を維持しつつ、変化に対応し、自律的に進化していくのかを論じる。特に、変化と安定のあいだで組織が保つべき平衡状態のダイナミズムと、それを実現するための具体的な実践について、理論と事例を交えて考察する。
第1章 動的平衡の理論的基盤
1.1 動的平衡とは何か
動的平衡(dynamic equilibrium)は、一般的には「時間とともに変化しながらも、全体としては安定した状態を維持すること」と定義される。 最も分かりやすい例は、自転車の運転である。自転車は静止していれば倒れてしまうが、ペダルを漕ぎ、ハンドルを微調整し続けることで、前進しながらバランスを保つことができる。
また、生体の恒常性(homeostasis)においても、体温や血糖値が外部環境や内部状態の変化に応じて絶えず調整されることで、生命活動に適した一定の範囲内に保たれている。 同様に、社会システムや組織も、市場の変化、技術革新、規制の強化といった外的・内的変化に適応しながら、自己の目的達成能力や存続可能性といった安定を保持する力を備えているのである。
1.2 システム思考と動的平衡
動的平衡の概念は、Ludwig von Bertalanffyによるシステム理論において明確に位置付けられている。Bertalanffyは、オープンシステム(開放系)が外界とのエネルギーや情報の交換を通じて構造と機能を維持しうることを指摘した(Bertalanffy, 1968)。ここでの「維持」は、静的な保存ではなく、絶え間ない調整と変容を通じたダイナミックなプロセスである。
Peter Senge(1990)は、システム思考を用いて学習する組織のあり方を提示し、変化に柔軟に適応し続ける組織には「自己強化型のループ(reinforcing loop)」と「バランス型のループ(balancing loop)」が共存すると述べている。
自己強化型ループ: 「良い報告が良い学習を生み、さらに報告が増える」といった、変化を加速・増幅させる雪だるま式のプロセス。
バランス型ループ: 「インシデント発生によりリスク認識が高まり、対策が強化されて事故が減る」といった、システムを目標状態に戻そうとする安定化のプロセス。 安全文化もまた、この2つのループが複雑に交錯するフィードバック構造のなかで発展しうる。
1.3 動的平衡と組織文化の相互関係
組織文化とは、表層的には行動様式や制度として現れるが、深層には価値観、前提、信念といった見えない構造が存在する(Schein, 2010)。これらの構造は変化に対して抵抗性を持つ(慣性がある)一方で、組織の学習や経験、リーダーシップの変化を通じて再構成されることがある。
動的平衡という視点は、この「変化」と「安定」の二項対立を架橋する鍵となる。安全文化は固定された「状態」ではなく、環境変化に適応するために絶えず自らを再構築し続ける「プロセス」として捉えるべきである。

第2章 安全文化の構造と動的平衡との親和性
2.1 安全文化の構成要素とその相互作用
安全文化は多層的であり、単一の要素で成り立つものではない。主要な構成要素として以下が挙げられる:
リーダーシップとマネジメントの姿勢: 安全を最優先する明確なコミットメントと、それを裏付ける資源配分や行動。
情報共有とコミュニケーションの質: 上下左右の壁を越えて、安全に関する情報が正確かつ迅速に伝達されること。
チームワークと相互信頼: メンバーがお互いを監視し合うのではなく、支援し合い、気兼ねなく注意喚起できる関係性。
報告制度とエラーに対する態度: 失敗を個人の責任に帰すのではなく、システムの問題として捉え、報告を推奨する公正な文化(Just Culture)。
継続的な教育と組織学習: 過去の教訓や新たな知見を常に学び、組織全体の知識として蓄積・活用すること。
これらは互いに影響を与え合い、歯車のように噛み合って機能する。たとえば、リーダーが報告を奨励する姿勢(要素1)を見せれば、現場の報告への心理的ハードルが下がり(要素4)、活発な情報共有(要素2)が生まれ、それが組織学習(要素5)を促進するという好循環が生まれる。
2.2 安全文化と動的平衡の共通構造
動的平衡が成立するには、システムが入力(インプット)と出力(アウトプット)を常に調整し続ける必要がある。安全文化においても全く同様のメカニズムが働いている。外部からの規制変更、社会的要請の変化、あるいは内部での事故発生といったインプットに応じて、組織内部の制度、態度、行動が調整され、その結果として「安全な状態」というアウトプットが維持される。
近年提唱されている「Safety-II」(物事がうまくいっている状態から学ぶ)の考え方も、この動的平衡と親和性が高い。失敗だけでなく成功からも常にインプットを得て、日常的な調整(work-as-done)を最適化し続けることが求められるのである。

表1:安全文化における動的平衡のメカニズム
| 要素 | 入力(インプット) | 調整メカニズム(プロセス) | 出力(アウトプット) | フィードバック型 |
| リーダーシップ | 社会的期待の変化、監査結果、経営環境の変化 | 方針転換、資源配分の見直し、新たなコミットメントの表明 | 組織の態度変容、新たな行動指針の浸透 | 双方向(バランス型) |
| 現場の行動 | 新しい手順の導入、教育訓練、日々の経験、ヒヤリハット | 作業プロトコルの微調整、非定常作業への適応的対応 | 安全手順の順守度の向上、現場力の強化 | 自己強化型 |
| 報告文化 | インシデント、ヒヤリハット事例の発生 | 報告制度の簡素化・拡充、報告者へのポジティブなフィードバック | 情報共有の活性化、潜在的リスクの可視化 | 双方向 |
| 組織学習 | 外部事故の知見、内部調査分析結果、成功事例 | 教訓の制度化・標準化、教育カリキュラムへの反映 | 文化的規範の変容、組織のレジリエンス向上 | バランス型 |
第3章 安全文化を動的平衡で維持・醸成する実践的アプローチ
3.1 成功事例:医療機関における対話型安全文化改革
日本のある大学病院では、重大な医療事故を契機に、トップダウンの管理強化ではなく「対話の文化」を中心とした安全文化の変革に取り組んだ。当初は現場から強い反発や無力感(「言っても無駄」)があったが、経営層と現場、あるいは異なる職種間での小規模な対話集会を粘り強く重ねた。
重要なのは、対話の場で出た意見に対して、「傾聴される」「否定されない」「具体的な是正措置が取られる(あるいは取れない理由が説明される)」という成功体験を積み重ねた点である。このプロセスを通じて、現場の職員は自らが文化を形成する主体であることを認識し、徐々に自律的な安全活動が生まれるようになった(岡田, 2022)。これは、対話というインプットが組織の規範を動的に再構成した好例である。
3.2 実践戦略:動的平衡の観点からの介入方法
動的平衡を維持・醸成するためには、組織の「代謝」を活発にする必要がある。
3.2.1 フィードバックループの設計 インシデント報告制度を強化するだけでは不十分である。「報告する(インプット)」→「分析・対策が検討される(プロセス)」→「結果が現場にフィードバックされ、改善が実感される(アウトプット)」というサイクルが迅速かつ可視化されていることが不可欠である。
報告が放置されれば負の学習(「報告しても無駄」)が強化されるが、適切な対応がなされれば正の学習(「報告は改善につながる」)が強化される。この正帰還ループを回す仕組みが文化のエンジンとなる。
3.2.2 マイクロ・カルチャーのモニタリングと調整 組織全体が均一な文化を持つことは稀である。部署やチームごとに異なる「下位文化(マイクロ・カルチャー)」が存在し、それぞれが独自の平衡状態を保っている。これらが組織全体の安全方針と乖離しないよう、動的に観察し調整する必要がある。
例えば、特定の部署で安全ルール違反が常態化している場合、単にルール遵守を強制するのではなく、その背景にある業務負荷やリソース不足といった構造的な問題(インプットの歪み)に対処することで、新たな平衡状態へと導くアプローチが求められる。
3.2.3 心理的安全性の確保 これら全ての活動の土台となるのが「心理的安全性」である。懸念や疑問、自身のミスを安心して発言できる環境がなければ、正確なインプット(現場の実態)は得られない。否定や懲罰的な責任追及のない環境が「言える文化」を育て、そのことが再び文化の適応力を高めるという、動的平衡を支える最も強力な自己強化ループを形成する。心理的安全性は、文化の動的平衡を保つための「潤滑油」である。

第4章 動的平衡の理論を取り入れた評価と教育
4.1 安全文化評価における動的指標の導入
従来の安全文化評価は、年に一度のアンケート調査など、ある時点での状態を切り取る「静的なスナップショット」にとどまることが多かった。しかし、動的平衡の視点に立てば、文化は常に変動している。 今後は、時間の経過とともに変動する「文化の動的指標(バイタルサイン)」を導入し、継続的にモニタリングする必要がある。
報告行動のトレンド: 単なる件数だけでなく、報告内容の質(ヒヤリハットか事故か)や、報告から対策までのリードタイムの推移。
コミュニケーションの頻度と質: 安全に関する会議や対話の回数、参加者の多様性、発言の双方向性。
心理的安全性のスコア変化: 定期的なパルスサーベイ(簡易調査)による変動の監視。
これらの指標をダッシュボード化し、異常な変動(例えば、急激な報告減少は「言えない雰囲気」の兆候かもしれない)を早期に検知することで、迅速な介入が可能となる。
4.2 教育とリーダー育成への応用
リーダーシップ教育においても、パラダイムシフトが必要である。従来の「規範を遵守させる管理者」から、動的平衡の視点を持った「文化を調整するファシリテーター」としての役割への転換が求められる。
具体的には、自組織の置かれた状況や文化の状態を客観的に認識し(状況認識)、その上で自身の行動や発言が文化にどのような影響を与えているかを内省する「メタ認知能力」の育成が重要となる。リーダーが自らの振る舞いを環境変化に応じて柔軟に調整できることが、組織全体の適応力を高める鍵となる。

第5章 理論的統合と今後の課題
動的平衡は、単なる抽象的な概念ではなく、組織が長期的に安全文化を維持・醸成していくうえでの現実的かつ強力な視座を提供する。しかし、その実践にはいくつかの課題も残されている。
5.1 動的平衡の可視化の困難性
「見えない構造」である文化の変化を、いかに客観的に可視化し、モニタリング可能にするかは依然として大きな課題である。アンケートや報告件数といった定量データだけでは、文化の深層にある微妙な変化や「空気感」を捉えきれない場合がある。
一つの突破口として期待されるのが、AI技術の活用である。例えば、社内コミュニケーションツール上のテキストデータや会議の音声データから、自然言語処理技術を用いて感情やトピックの推移を分析することで、組織のムードや関心事の変化をリアルタイムに捉えられる可能性がある。定性的な情報をいかに定量的なトレンドとして可視化するかが、今後の技術開発の鍵を握る。
5.2 下位文化間の矛盾と整合性確保
前述の通り、組織内には多様な下位文化(マイクロ・カルチャー)が存在する。これらが独自に進化する過程で、組織全体の戦略や方針と矛盾が生じ、全体としての平衡が崩れるリスクがある(例:効率を重視する製造部門と、安全を重視する品質保証部門の対立)。 この課題を克服するには、トップダウンの方向性とボトムアップの現場の声を動的に調整する「対話型ガバナンス」が求められる。異なる下位文化を持つグループ間での対話の場を設け、互いの文脈や制約を理解し合うことで、全体最適に向けた新たな平衡点を見出すプロセスが不可欠である。

おわりに
本稿では、安全文化を動的平衡の視点から捉え直すことで、単なる「あるべき論」や静的な「遵守の枠組み」を超え、変化に柔軟に対応しつつ、組織としての安定を保つというダイナミズムに光を当てた。
動的平衡は、組織にとって“揺るぎない不動の状態”ではなく、“絶えず揺れながらも崩れない強靭な状態(レジリエンス)”を目指すためのコンパスである。 この視座を持つことで、未来の安全文化はより自律的で、学習指向的で、予期せぬ変化にも適応可能な真の強さを備えることができるだろう。組織が自ら考え、感じ、動き続ける生命体のように、安全という価値を追求し続ける未来がそこにある。
参考文献
Bertalanffy, L. von. (1968).
General System Theory: Foundations, Development, Applications. New York: George Braziller. Senge, P. (1990).
The Fifth Discipline: The Art and Practice of the Learning Organization. Doubleday. Schein, E. H. (2010).
Organizational Culture and Leadership (4th ed.). Jossey-Bass. Hollnagel, E., Wears, R. L., & Braithwaite, J. (2015).
From Safety-I to Safety-II: A White Paper. The Resilient Health Care Net.
岡田浩司(2022)『医療安全文化の再構築:対話による組織変革』、中外医学社
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Schneider, B., Ehrhart, M. G., & Macey, W. H. (2017). Organizational Climate and Culture: Reflections on the History of the Constructs in the Journal of Applied Psychology. Journal of Applied Psychology, 102(3), 468–482.
岡田浩司(2022)『医療安全文化の再構築:対話による組織変革』、中外医学社


